うつオジサンは、うつオジサン自身を総合的・俯瞰的に見てみました。
「うつ病」になってしまった、「自分」が見えてくるのではないかと考えたからです。
菅総理が良く使う「総合的・俯瞰的」に見てみようということですね。
「善」か「悪」か…?
うつオジサンは、自慢ではありませんが「悪人」ではないと思います。
その根拠を示すものは、何一つないのですが…。
これは、性善説による仏教を受け継いでいるからかも知れませんし、「善人」でありたいと思い生きてきたからかも知れません。
あるいは、幼い頃に「人には迷惑をかけてはいけないんだよ!」という祖母の教えによるのかも知れません。
また、父からの唯一の教えである「他の人が先、自分のことは一番最後!」を実践してきたからかもしれません。
そのため「善」か「悪」のどちらかで言えば「善」ではないかと思います。
甘い評価かも知れませんが…。
うつオジサンの根本には「善」があると信じています。
しかし、そこは人間だもの、「違う自分」だって住んでいます。
それは、うつオジサンがよくする「他者への非難」であったり、「独りよがりの欲求」であったり、そんなものがうつオジサンの頭の中には同居しています。うつオジサンに限ったことではないのでしょうが…。
うつオジサンは、他者を思いやる心が残っている限り、人は「悪人」にはなれないと思っています。
ただし、うつオジサンが「善」を発揮する場面はまったくありませんが…。
「可」か「不可」か…?
うつオジサンは、「可」か「不可」かで考えてみると、どうしても「不可」ということになるでしょう。
社会との関係を遮断して、自分の部屋に引きこもっているからですね。
誰かの役に立っている訳でもなくて、社会貢献などとは程遠いところにいるからです。
何をもって「不可」になるかの線引きはありません。
そもそも、人を「可」とか「不可」とかで分けることが良いとは言えませんね。
しかし、うつオジサンは、どうしても自分に「可」をつけることができません。
これは、ここ数年に限ったうつオジサンのことです。これから「可」をつけてあげられる日が来るかも知れません。
でも、現在は間違いなく「不可」だと思っています。
「優しい」か「厳しい」か…?
うつオジサンは、「優しい」です。あくまでも表面的な「優しさ」ですけどね!
うつオジサンは、「厳しい」とは言えません。本気で怒ったことが一度も無いからです。
何も怒ったことがないから「厳しくはない」と言うことにはなりませんが…。
うつオジサンも「人には厳しく、自分に優しい」的なところがあると思います。
…が、「人に厳しく」することができないので、「人には優しく、自分にも優しい」オジサンのようです。
これは、いい意味ではありません。時には人に対して厳しくすることも必要だからです。
うつオジサンは、ただ「人に厳しく」することを恐れているだけなのです。
単に「逃げている」のでしょうね。そういう意味では、ズルいオジサンなのです。
人から嫌われることを恐れているのでしょう。
「客観的に見たうつオジサン」…!
うつオジサンは、善良な市民を装った腹黒いオジサンです。
まあ、腹黒さは真っ黒ではなくて、少しだけ灰色が混ざった黒さなのかも知れません。
「悪人」ではないことを差し引いた分だけ、腹黒さが薄まっているのだと思っています。
見た目は、チビ・デブ・ブサイクの三拍子そろったオジサンです。
そこに「音痴」、「味覚音痴」が加わります。
そして、人の顔色ばかりを気にして、自分を良く見せようとする「弱気なオジサン」です。
人前に出るのが大嫌いな弱虫なオジサンでもあります。(以前は、人前でプレゼンテーションをしたり、会議やイベントの司会をしたりしていたのになあ?)
「客観的に見たうつオジサン」は、ごく普通のオジサンに「うつ病歴17年目」をプラスした、どこにでもいるオジサンのようです。
うつ病歴17年目のオジサンは、どこにでもはいないかあ?
総合的・俯瞰的に見てみると、うつオジサンが「うつ病」になり、それが長引かせている理由は色々とありそうですね。
もしも、人としての「弱さ」が「うつ病」を引き起こすことがあるのならば、うつオジサンは確実に「うつ病」になる定めだったように思えます。
もしかすると、これがすべての原因なのかも知れません。