うつオジサンは、時折、「禅」の本を取り出して「禅の言葉」に触れています。
「禅の言葉」は、ずっと受け継がれてきたことが示すとおり、実に意味深く、また奥深いものです。
今回もいくつか紹介してみます。
「禅の言霊」~「思うて詮なきことは思わず」…!
臨済宗天竜寺派の管長をされていた関牧翁老師の座右の銘が上記の言葉です。
いくら考えてもどうにもならないことは考えない、考えても意味がないことは考えないということです。
何か一つのことを考えたり、思い出したりすると、それに関連する様々な心配事が浮かんできます。そして、それは際限がありません。
考えることの多くが、自分に関することであり、失敗したり望んだ成果が出せなかったりしたことです。考え始めると、自分を責める地獄に陥ってしまいます。自分で自分を苦しめることは馬鹿らしいことだと思いませんか?
考えなければ、苦しむことはありません。もちろん、考えなければならないことは日常としてたくさんあるでしょう。
ここで言う、考えないこととは、過去の自分であったり、誰かにされた嫌な行為であったり、現在考えてもどうしようもないことです。
「思うて詮なきことは思わず」を習慣化できれば、きっと苦しみは減ると思いませんか?
「禅の言霊」~「好事も無きにしかず」…!
悪い事がないようにと思うことは当然ですね。
しかし「禅」では、いいことがあってはいけない、望んではいけないと言っています。
「禅の言葉」は、ときに訳が分からないことを言います。
うつオジサンにはさっぱり分かりません。
良いこと(好事)が心を乱さないのであればいいのですが、良いことが起こると心が動きます。良いことが起こって優越感を持ったり、人を見下したりすることにもなりかねません。人は、良いことであれ、悪いことであれ、心を乱されてしまうものなのです。
うつオジサン達など「うつ病」に苦しむ人は、「この苦しみから逃れられるなら、何でもあげます。」という気持ちを持つことがありますよね。それは、地位や名誉や財産や才能などを持っている人でも同じことです。
地位や名誉などを持っていても、苦しみからは逃れられないのです。地位や名誉などがあったとしても、それらは苦しみから逃れる解決法にはならないのです。
…なので、良いこと(好事)があっても、心を乱されるくらいなら、無い方がいいと言っているのです。
そうなると、「からっぽの人生」ではないかと言われてしまいそうですね。
でも、心が苦しんでいれば好事もありません。
心が苦しまずに普段の生活が遅れることが一番いいのです。
「禅の言霊」~「如来の法」…!
すべてのものは、一瞬も同じではなく、常に変化しています。
例えば、過去に嫌なことをされたと恨んでみても、嫌なことをしたその人は、今や存在はしていないのです。過去のその人は、もはや別人になっているのです。
薩摩国(鹿児島県)の島津家家老であった島津一徳斎という人が、次のように詠んでいます。
「つらしとて 恨みかえすな われ人に 恨み恨みて 果てしなければ」
嫌なことをされたことを思い出して、恨みを晴らそうなどと考えてはいけません。
その先には「恨み」の悪循環が待っているだけなのですから。
釈尊(お釈迦様)もこのように言っています。
「恨みに対し 恨みを持ってする 恨みの尽くることなし
恨みに対して忍を持ってする これ如来の法と名づく」
過去の自分も、過去の他人も、もはや存在しません。
今いる人はすでに別人なのです。
このように考えることは、人間関係をよくする最善の策ではないでしょうか?
「禅の言葉」は、難しいものですが、噛みしめてみると意外に味わい深いものです。