うつオジサンに足りないもの、それは「愛」です。
「会話」も「友情」も「お金」も足りない。
しかし、一番足りないものは「愛」なのです。
だから、うつオジサンは元気が出ない!…のかも知れません。
「愛」の力…!
うつオジサンに「愛」を語る資格はありません。
それは、うつオジサン自身が「愛」を放棄してきたからです。
「愛」は、ときに面倒くさくて、ときにうっとうしいからです。
だからといって、「愛」を否定するものではありません。
自分の人生を振り返ってみると、「愛」は、ときに力となり、ときに優しさとなり、ときにふわふわとした雲の上にいるかのような気分となり、うつオジサンを幸福な気持ちにさせてくれました。
今さら、こんなうつオジサンの「愛」について知りたい人はいないでしょう。
うつオジサンが、何故「愛」という言葉を恥ずかしげもなく書いたかといえば、足りないと思ったからです。
「引きこもりの定め」といってしまえばそれまでですが、どうにも足りない気がする。
ガス欠して空き地に放置されたオンボロ自動車のようなものです。
(ガソリンが欠乏しているのだから、「ガソ欠」ではないのかと検索してみたところ、米国ではガソリンのことをガスと呼んでいることに由来するとかしないとか…。どうでもいいのですが…。)
うつオジサンが「愛」に包まれていたころ、自分が思う以上に大きな力が発揮できたことを思い出しました。
とてもできそうにないと思っていたことができてしまったりしたのです。
それは「愛する力」であったり「愛される力」であったりということが原動力だったのだと、ふと思い出しました。
最近のうつオジサンは、どうにも力が出ないのです。
「うつ病患者」だからと終わらせてしまえばそれまでのこと。
「うつ病」になって16年目にもなると、「うつ病患者」で終わらせてしまわなければならないこともたくさんありました。
しかし、そうではなくて「力」があった時期も確かにあったのです。
その「力」は、若いころの「力」とは比べ物にならないほど確実にひ弱な「力」です。
そのひ弱な「力」でさえもないのです。
これを「年のせいさ!」と、これまた終わらせてしまうこともできます。
…が、うつオジサンは、このままで終わりたくないのです!
何を愛そう?
これまで書いてきた「愛」は、男性と女性の間の「愛」のことです。
上記のとおり、うつオジサンは男性と女性の間の「愛」においては放棄してきました。
もう10年くらい経つでしょうか?
しかし、「愛」は男女間だけに存在するものではありません。
それでは、いったい何を「愛」すればいいのでしょう?
男女間の「愛」以上に、あるいは同等に「力」を与えてくれる「愛」があるのでしょうか?
さて、ここまで一気に書いてきました。(何の展開も考えずに…。)困ったぞ!どうする?
(もしかすると、うつオジサンに一番足りないのは発想力・文章構成能力なのかあ?)
いや、きっと何かあるはず。
作家の吉川 英治(1892~1962年) さんが「晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す。楽しみのあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ」という言葉を残されています。
また、運門禅師は「日々是好日」(一瞬一瞬を大切に生きなさいという意味です。)と言われています。
おっしゃる意味は分かります。
しかし、うつオジサンは、真夏の暑い日差しは愛せませんし、雨の日も愛せません。
また、楽しんだり一瞬一瞬を大切に生きるのにも「力」が必要です。
いったい何を「愛」せばいいのだろう?何から「力」を得られるのだろう?
それとも「愛」なるものを完全に放棄して、「力」なくボーっと生きるのもありなのか?いい年だし…!
逆に「愛」とか考える方が可笑しいことだと思えばいいのか?
誰か教えてください!「愛」に「力」はあるのか?
そして、それは必要なのか?例えオジサンであったとしても…!
それがうつオジサンであったとしても…!