以前、「やさしい人」について書きました。
今日、うつオジサンは、少し腹が立っていて「心」がなかなか静まってくれません。
そこで、「やさしさ」について、改めて考えてみたいと思います。
うつオジサンは、こうしてパソコンに向かって、色々考えながら書くことで「心」が静まってくれるような気がしています。
「やさしさ」はどこにある?
人は誰でも「やさしさ」を持って生まれてきます。
その「やさしさ」は、成長するにつれて様々な雲に覆われてしまいます。
欲望や他人への妬み、憎しみや恨みといった様々な雲によって「やさしさ」が覆われてしまうのです。
失ったわけではありません。
ただ雲に覆われているか日陰に隠れているのです。
このことは、『禅』の「妄想の雲が“ありのままの自分”を覆い隠している」ということに通じている気がします。
しかし、雲の間から日差しが射すように、誰の心からも「やさしさ」は顔を出します。
よく「人間性」という言葉を聞きますよね。
この「人間性」に不可欠な要素の一つが「やさしさ」だと思います。
この「やさしさ」の中には「思いやり」、「素直さ」、「明るさ」が内在していると思います。
このうち「明るさ」は、決して笑顔だとか明るい言葉を発しているといったことではなく、誰かに「やさしさ」を感じさせた人の心を言い表しています。
暗い顔をして「やさしい」行為をする人だっていますが、きっと心の中には明るい「やさしさ」があるのだと信じています。
この「やさしさ」は、同じ人の同じ行為や言葉であったとしても、受け取る人の状況や気分、受け取り方などによって「やさしさ」は受け入れられなかったり、拒絶されてしまうことだってあります。
このような場合には、この「やさしさ」の行為を行ったり言葉を発した人は、「やさしさ」から遠ざかってしまうことになるでしょう。
「やさしさ」は、時と状況を選ぶのです。
「やさしさ」とは、実に難しい「もの」あるいは「こと」なのですね。
では、「やさしさ」とは、いったいどこにあるのでしょうか?
「やさしさ」のありか…!
誰しも知っているように「やさしさのありか」は、「心」の中です。
だとしても、「心」自体が物理的に明確に存在しているものではないので、どこにもないのでしょうか?(脳の仕組みだとか細胞だとか神経だとか専門的なことは分かりません。うつオジサンは、文系のただの「うつ病患者」なのですから…。)
それでも、これまた誰しも知っているように「やさしさ」は確実にありますよね。
親から受けた「無償のやさしさ」、恋人や夫婦感の「愛のやさしさ」、スポーツの練習や試合の中にある「仲間のやさしさ」、他にも様々な有形・無形の「やさしさ」があります。
例えば、公園で幼子と母親が遊んでいて、それを見て微笑ましく感じたとすれば、その人の心にも「やさしさ」はあります。
テレビを観ていて感動して泣いてしまった「心」の中にも「やさしさ」はあります。
この世は、実は「やさしさ」で溢れているのです。
どこもかしこも「やさしさ」で満ち溢れているのです。
ただ、この満ち溢れた「やさしさ」に気づくかどうかが難しいのです。
忙しく働いていたり、子育てや家事に追われていたり、勉強に打ち込んでいたり、「うつ病」で一日中寝込んでいたりすると、「やさしさ」は私たちの前を素通りしていきます。
“一息つく”と言いますが、“一息つく”とはいい言葉だと思いませんか?
一息ついて、周りを見渡してみませんか?
きっと、あなたの周りは「やさしさ」で満ち溢れているはずです。(鬼嫁がいたり、ぐうたら亭主がいたり、嫌な上司がいたりして「やさしさ」が見当たらなかったら謝ります。ごめんなさい!)
もしも、あなたが「うつ病」の中にいるのなら、“一息ついて”周りを見渡してみてください。
きっと「やさしさ」が見つかりますよ!
うつオジサンのように、一人暮らしで引きこもりでなければ…ね。